浄土真宗は神祇不拝を緩和するべきではありま

Writer: admin Type: schwart Date: 2019-01-24 00:00
浄土真宗は神祇不拝を緩和するべきではありませんか?よく浄土真宗系の本を読んでいると「本山本願寺に参詣した後で清水寺や北野天満宮にも参拝するような『ついで参り』が目立つ」と、それを嘆かわしいことであるように書いてあるのが見受けられますが、それの何が悪いのかと疑問に思います。一応理屈としては弥陀の本願だけでじゅうぶんなんだから他の神仏にも頼むことは本願を疑うことになるからという言い分をしている事は知っていますが、本願寺ができる以前から人々の心に寄り添ってきた寺院・神社に参拝することがそんなに問題行動だとは思えません。浄土真宗は聖徳太子を大事にしていますが、では法隆寺や四天王寺を参拝するのにも文句があるのでしょうか?法然上人は一百四十五箇条問答で、念仏者が神社に参拝することは差し支えないと明言しています。親鸞聖人も鹿島神宮や箱根神社と関係がありました。今の浄土真宗が主張する神祇不拝は、両祖師の思惑とは関係無い所で後世の融通が利かない時代になってからやかましく言い出しただけのような気がするのですがいかがでしょうか?ちなみに私は西本願寺で法名をもらった念仏者ですが、記紀神話が好きで神社も参拝しますし(柏手を打たず心の中で念仏する)、家に神棚も起きたい方です。共感した0###浄土真宗は、親鸞聖人が御在世の頃から、すでに弟子が勝手な指導したり、曲解をして教えたりして、ゴタゴタを生じさせていました。宗門の設立当初からすでに、教えにおいて拡大解釈や誤解や曲解を受けやすかったことが挙げられます。聖人の真意とは別の方向に向かいやすい理由としては、修行の果てに阿弥陀如来や極楽浄土にまみえてなければ理解できないことが、多かった為です。阿弥陀如来にまみえれば本質をすべて理解できるのですが、その境地にまだ達していなければ、本質を見失うような教えが多いのです。神祇不拝も、その1つです。 つまり、それだけの境地に達した弟子が当初から少なかったことが、挙げられます。現代に至っては、皆無かもしれませんね。阿弥陀の慈悲に触れれば、神祇不拝はどうでもいいというか、日本の神様も自然もすべては阿弥陀の慈悲の顕現として知覚できるのです。ところが本質を悟っていない以上、「信心の浮気はダメですよー」ということで、画一的に、紋切り型に禁じたのだと思われます。阿弥陀信仰をお持ちなら、神社や神棚の御神前においても、南無阿弥陀仏とお唱えする。神様をお祀りすることが悪いのではなく、その先に何を見るのかだと思います。ナイス0
###皆さん回答ありがとうございました。「阿弥陀の慈悲に触れれば、神祇不拝はどうでもいいというか、日本の神様も自然もすべては阿弥陀の慈悲の顕現として知覚できる」という言葉が僕の常々思っていた事ににぴったり合致したので、こちらをベストアンサーとさせていただきます。###私も門徒(西)でございますが、「不拝」という語句に対し「禁止」と「不要」とでは意味が全く違いまして、真宗系の本にそう書かれてあったことに際し、saiさんの捉え方は少し違っている様に私は思います。只々、祈願や祈祷ないし占いの類は迷信という前提のもと、そうしたものに惑わされるのを危惧なさっているに過ぎない教え。そういう宗旨は宗旨として、それを実践する側からすれば、やはりそれは「本旨を知らずして残念な思い」にもなり、そうして本などに記述するなり発言することにもなり、だからと言って「習俗を禁止または行為を問題視している話し」ではない訳でございます。確かに、中には古風(年配の僧侶)な思想から発せられた「説(誤解)」も、過去には見受けられましたが、禁止が本旨ではないのはうちの現住職も仰っていますし、そういう誤解も徐々に解けてきてます。あとは私たち門徒ほか、宗旨を正しく理解し、かつ実践するか否かは各々個々人が自由に判断する問題かと思いますよ。ナイス0
###親鸞の立場は 神祇不帰依です。現在 本願寺派の教団内で 神祇不拝を盛んに主張している中心に 戦後学生運動をされていた世代の方々がおられます。靖國神社に反対する為に 親鸞の教義を都合よく解釈し「神祇不拝」だと強く主張しているように感じます。また 他にも真宗は弥陀一仏に帰命するというのは確かにそうなのですが、そこで思考が停止した視野が狭い方々も 盲目的に神祇不拝を主張するように思います。清水寺に参拝したからなんなんでしょうか?しかも 嘆かわしいとは…ほっておいて欲しいです。一人で勝手に嘆いていてくれと言いたいです。その本を書いた方は 宗教的な感性が乏しい方なのではないでしょうか。ナイス0
###まぁ俺なんて神社仏閣に行って「神仏を拝んでいるようで、ほんとは欲望を拝む」方だけど。本山本願寺の浄土真宗ってゆうたらお西っさんかお東さんかだろうね。浄土真宗全てがそうだから!ってこともないでしょう。本山本願寺→清水寺や北野天満宮に参拝が『ついで参り』悪いというのは、清水寺の御本尊さんや北野天満宮の神さんに失礼では?という話になるね。本願寺にお参りして「ついで」にならないよう次の日か別の日のメイン参詣で行くべきでは?ということかも。清水寺や北野天満宮の後に「ついで」感覚で信者が本山本願寺にささっと手短に参るのを「それは失礼ではないか?」なら分かる。敬うのと頼むのは意味が違うということだろうと。法然上人一百四十五箇条問答ってのあるんですね、初めて聞きました。浄土宗公式HPでQ.念仏を行じている者が神社などに参拝するのは、いかがなものでしょうか。A.さしつかえありません。(第92条)~世の中は、さまざまな考え方をする人がいて成り立っています。そうした中で、自分の考えだけを正しいと主張して、押し通そうとすると、必ずトラブルが生じます。価値観が多様化した時代だといわれる現代こそ、他者の価値観も尊重する広やかな心を持つことが大切です。この場合も、自分が他者とともに神社にお参りしたりしたら、本殿に向かって、静かに【お念仏をとなえればいい】でしょう。~ということですか、参るのも敬うのも目の前の神さん仏さんでも 頼るのは阿弥陀さんだよそこは間違わないでねってことでしょう。で、神祇不拝は神祇不頼の意味なんだろうね。敬む意味での拝むを「するな」という意味じゃないと思うけど。確か諸仏諸菩薩諸天諸神も阿弥陀さんをほめたたえているし、諸天諸神が阿弥陀さんと一緒に念仏信者を守ってくれると親鸞さんがいうてたような気がするけど。とはいっても、浄土真宗の信者が全員「浄土真宗の教義にほとんど賛同して信者になりました」なワケでもないから、単に宗教の習慣や儀礼上信者の人もいるでしょう。先祖代々生粋の檀家さんの家に神棚があっても不思議には思わないが、確か生粋の氏子さんの家には仏壇はなかった気がするような…まあそんなもんだろうけど。浄土真宗信者で念仏する者なら本山本願寺(←親鸞さんはそれを知らないが)だけに参って清水寺や北野天満宮には参ってはいけないということを親鸞さんがハッキリと言っていたのか言ってないのか?だろうね。ナイス0
###戦後の浄土真宗は狂っています。(私、浄土真宗門徒です。神社も参拝します)高齢の真言宗僧侶が言われるには「大法輪(仏教総合雑誌)に有る時、浄土真宗の中のえらい人が『霊魂は無い』と寄稿した辺りからおかしくなった」と言われます。そもそも浄土真宗僧侶の言っていることが全て正しいのなら病気や怪我になってしまったら治療を受けずにそのまま死ぬことを望むべきです(門徒の死後は極楽往生間違いなしなんでしょ?早く極楽に行きたいんですよね?)。医者にかかって病気や怪我の治療を受ける浄土真宗僧侶がいたら「インチキくそ坊主」と言ってやりましょうwナイス0
###釈尊(お釈迦さま)の教えに従ってはいけない理由を聞かせて下さい。親鸞聖人は「親鸞更に珍しき法をも弘めず、釈迦如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」と九十歳でお亡くなりになるまで釈尊の本意である阿弥陀仏の本願一つを叫ばれました。釈尊の説かれた仏教の結論が『大無量寿経』の「一向専念無量寿仏」でしょう。全人類の救われるたった一つの道は阿弥陀仏一仏を信じよ!阿弥陀仏一仏に向かいなさい」これ以外にあったら教えて下さい。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q121799958...ナイス0

 

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